朝、外を見ると、ベランダが濡れていた。雨だ。
最高22℃、最低17℃と、この時期らしい気温であった。
昼食を食べに出かけたときは、下着×ロンT×ナイロンパーカー。
ナイロンパーカーが暑くて、結局脱いだ。
夕方、スーパーへ買い物行ったときは、下着×ロンT。
ロンTが厚手だからか、ちょっと暑かった。
20℃超えるなら、ロンTだけでもいけそうだ。
近所の買い物には、もってこいである。
ロンTの使い方は、今後も要検討である。
気にある記事があった。
なぜ日本人は、「ムダなこと」をやりたがるのだろう。
以下、上記リンクからの引用である。
意味のないことは、議論しないのが大事です。手すりを何分おきに消毒すれば正しいのかとか、エレベーターのボタンを何分おきに消毒するのが正しいのかという命題には、答えはありません。
答えがないのなら、むしろどこにでもウイルスがいる前提で、手指消毒をして、鼻や口には触らないようにすることでリスクをヘッジしたほうが、より堅牢なやり方なんです。
(中略)
こう言ったら失礼かもしれませんが、その納得できない心情こそが、我々の社会のいろんな問題の原因かもしれないと、ぼくは思います。
この「みんな疲れるからやめよう」っていう発想を「引き算の発想」というんですが、日本にはこれがないんです。必ず足し算でいこうとする。引くことを知らないんです。
なぜ、日本人は「引き算の発想」が苦手なんだろうか?
それは、農耕民族の血が流れているからではないだろうか。
手入れすれば、した分だけ豊かな実りが得られるのが農耕。
つまり、「努力は必ず実る」「苦労の分だけ結果が出る」発想。
「あれをやめよう」と引き算すると、「サボってる」と、イメージがよくない。
休むことへの罪悪感もその典型である。
教育現場でも、「努力は必ず実を結ぶ」と教える。常に「足し算」。
「この力が足りないからこの授業をやろう」と、とにかく詰め込む。
日本の庭や茶室、絵画を見ると、余白の美しさがある。
すっきりして、使いやすい。美しい。
まさに「引き算の発想」であったはずだ。
「配られたカードで勝負するしかないのさ」とスヌーピーは言った。
スティーブ・ジョブズの生み出したアップル製品も、「引き算の発想」だ。
コロナの影響で、まさに今の生活が、「引き算の発想」になっている。
不要不急な外出やイベントはしない。まさに「引き算の発想」である。
資本主義に基づく経済活動が「足し算の発想」であり、経済の発展を求め続けることも「足し算の発想」である。
我々は、いまこの「足し算の発想」を見直す時期なのだ。
人口は減ることが危惧されているが、減るのは自然な流れなのだと思う。
自由を求め、合理的な発想をすれば、子どもは減り、人口は減るのが自然だ。
減っていき、どこかでまた、「増やそう」という流れになるかもしれない。
減らない対策を立てるより、減っても機能する社会の仕組みを考えるべきではないか。
人口を増やそうというのは、「足し算の発想」
減ってもやっていける社会を再構築するのが、「引き算の発想」
この時間が有り余る今だからこそ、発想は足し算である。