コロナウイルスの話題ばかりで、コロナ鬱になる。
ニュース、特に動画は悪影響を及ぼすようだ。
あまりコロナのニュースを見過ぎないようにしたい。
とりあえず、今日は買い物以外は自宅で過ごす。
午前中は、毛布の洗濯と、掃除機、トイレ掃除をした。
あとは、マスカレード・ホテルを読む。
お昼は、すき家へ「うな丼」を食べに行った。
しかし、混雑のため、3回呼び出しても店員がこず。
さらに、自分より後から来た人に注文を聞きに行くので、店を出た。
ガストで「高崎パスタ」を食べた。
想像以上にヒレカツの上がり具合がよかった(笑)
本当は、魚を食べるつもりだったが、気にしない。
ここでイライラせず、前向きになれるのは、運命を受け入れられるようになったから。
今日はすき家で食べられない日だったのだ。
「~したい」「~すべき」と思うから、苦しくなる。
すき家で食べられなかった、という事象があるだけ。
そこにどういう味付け、思いを抱くかは、その人が決める。
「第二の矢」を自分に刺す必要はないのだ。
病気になったり大切な人を失ったりするという出来事そのものを、第一の矢が刺さったとするなら、それを嘆いたり腹を立てたり文句を言ったりすることを、第二の矢を自らに刺している、ととらえるのです。
出典:運命とうまく付き合うレッスン 小池龍之介著
平常心を保つとは、心を動かされないこと、刺激に反応しないこと。
まるで機械のような冷たい印象を受けるかもしれない。
でも、感情的になる人ほど、自分も疲れるし、周りも疲れる。
冷たく反応するのは、やっぱり心を動かして冷たく対応しているのだ。
笑顔で、上機嫌が通常の状態なら、何も起こらない。
人生で起こること、すべて良きことなのだ。
そう思えるのも、心に余裕があるから。
様々な経験をしてきたから。
いろいろな文献を読んできたから。
最後に、コロナウイルスがもたらしたのは、生物学的脅威だけではない。
人間の弱さや、現代社会の抱える問題をあぶりだしたともいえる。
以下の記事を読んで、自分で考え、冷徹に行動することを心がけたい。
甚大な危機に接して、ほぼすべての人びとが思考の限界に突き当たる。
だから、楽観主義に依りすがり現実から逃避してしまう。
第二次世界大戦では、日本の勝利に終わると大本営は国民に繰り返し語っていた。このような為政者の楽観と空威張りを、マスコミが垂れ流し、政府に反対してきた人たちでさえ、かなりの割合で信じていたことは、歴史の冷酷な事実である。
残念ながら日本政府は、あるいはそれに類する海外の政府は、これまでの私たちが述べてきた無数の批判に耳を閉ざしたまま、上記の条件を満たす努力をすべて怠ってきた。そんな政府に希望を抱くことで救われる可能性は、『週刊文春』の3月26日号に掲載された「最後は下部のしっぽを切られる」「なんて世の中だ」という自死寸前の赤木俊夫さんの震える手で書かれた文字群によって、また現在の国会での政府中枢の驚くべき緩慢な言葉によっても、粉々に打ち砕かれている。この政権がまだ45.5パーセントの支持率を得ているという驚異的な事実自体がさらに事態を悪くしている。
日本は、七人に一人の子どもが貧困状態にある国である。経済状況の差をここまで広げた政策のつけは、こういう危機の時代に回ってくる。私は、『給食の歴史』(岩波新書、2019年)で、高度経済成長期でさえ給食で一日の重要な栄養をとって食いつないできた子どもたちが多数いたことを書いた。
スペイン風邪の教訓
第一に、感染症の流行は一回では終わらない可能性があること。新型コロナウイルスの場合も、感染者の数が少なくなったとしても絶対に油断してはいけないこと。ウイルスは変異をする。弱毒性のウイルスに対して淘汰圧が加われば、毒を強めたウイルスが繁殖する可能性もある。なぜ、一回の波でこのパンデミックが終わると政治家やマスコミが考えるのか私にはわからない。ちょっと現代史を勉強すれば分かる通り、来年の東京五輪が開催できる保証はどこにもない。
第二に、体調が悪いと感じたとき、無理をしたり、無理をさせたりすることが、スパニッシュ・インフルエンザの蔓延をより広げ、より病状を悪化させたこと。過労死や自殺者さえも生み出す日本の職場の体質は、この点、マイナスにしか働かない。
第四に、政府が戦争遂行のために世界への情報提供を制限し、マスコミもそれにしたがっていたこと。情報の開示は素早い分析をもたらし、事前に感染要因を包囲することができる。
第五に、スパニッシュ・インフルエンザは、第一次世界大戦の死者数よりも多くの死者を出したにもかかわらず、後年の歴史叙述からも、人びとの記憶からも消えてしまったこと。
第六に、政府も民衆も、しばしば感情によって理性が曇らされること。あるいは、政治家たちがこのような差別意識から自由な人間だったら、きっと危機の時代でも、人間としての最低限の品性を失うことはなかっただろう。そしてこの品性の喪失は、パンデミック鎮静化のための国際的な協力を邪魔する。
第七に、アメリカでは清掃業者がインフルエンザにかかり、ゴミ収集車が動けなくなり、町中にごみがたまったこと。
ある特定のウイルスを体内に長年共生させ、他の病原菌から守るような状況になる可能性を失っていくかもしれない。潔癖主義が人種主義と結びつくと、ナチスの事例に見られるようにさらに厄介である。
「一つの国が文明国家であるかどうか[の]基準は、高層ビルが多いとか、クルマが疾走しているとか、武器が進んでいるとか、軍隊が強いとか、科学技術が発達しているとか、芸術が多彩とか、さらに、派手なイベントができるとか、花火が豪華絢爛とか、おカネの力で世界を豪遊し、世界中のものを買いあさるとか、決してそうしたことがすべてではない。基準はただ一つしかない、それは弱者に接する態度である」
危機の時代は、これまで隠されていた人間の卑しさと日常の危機を顕在化させる。危機以前からコロナウイルスにも匹敵する脅威に、もう嫌になるほどさらされてきた人びとのために、どれほど力を尽くし、パンデミック後も尽くし続ける覚悟があるのか。皆が石を投げる人間に考えもせずに一緒になって石を投げる卑しさを、どこまで抑えることができるのか。これがクリオの判断材料にほかならない。「しっぽ」の切り捨てと責任の押し付けでウイルスを「制圧」したと奢る国家は、パンデミック後の世界では、もはや恥ずかしさのあまり崩れ落ちていくだろう。